Roadside Lights ⅵ
雪がしんしんと降り積もる中での撮影は、遙か昔の記憶を呼び覚ます。それは雪遊びをしていて長靴の中が雪でいっぱいになり、靴を脱ぐのに苦労したことや、除雪でできた大きな雪山に穴を掘って秘密基地のようにして遊んだことなどである。そんな楽しい思い出にもまして、私の生まれ育った最北の自然の貌は厳しいものであった。前に進めないほどの激しい吹雪は、まるで自然の力が目の前に立ちはだかるようで、人間の存在がいかに小さなものかを思い知らされた。そのような中、外灯により浮かび上がった吹雪の世
界は、外灯の光により雪が反射して思いのほか明るく美しい景色であったと記憶している。
私にとってこの昔の記憶を具現化しているのが、雪夜に輝き続ける自販機である。そして今、路傍の自販機は、本来の機能とは別の意味を付与され雪夜に輝き続けている。それは日本の治安が良いことの象徴であり、受け取る人の視方によっては擬人化した現代人としても捉えることが出来るだろう。いずれにしてもこの景色は、欧米ではあり得ない光景であるといわれている。この景色から視えてくるのは、人知れずとも、誰かのために働くという価値観が根付く日本の風土があると考える。ここでは自販機が人間の鑑として機能し、血の通っていない機械を信頼するというモラルが成立し、自販機はある意味パートナーとして考えることが出来る。多分この感覚は神を絶対とする欧米にはあまりない日本独特の価値観ではないだろうか。このようなロボット(機械)対人間としての西洋と日本(東洋)との違いは、1927年ドイツ映画の“メトロポリス”(1)と日本映画の“鉄腕アトム”を比べるとよくわかる、“メトロポリス”ではロボット(機械)は人間と対立するものであり、“鉄腕アトム”ではロボット(機械)は友人であった。 さらに欧米の文化との違いでいえば、日本語という言語からくる独自の感性も影響していると考える。英語では文の最初に動詞が来て、結論が先に提示され、その後その説明となる。しかし日本語では結論が最後に来て、その前に曖昧な状況説明や背景が置かれるのが普通で、この曖昧さが、聞き手や読み手に「自分で考える余地」を与え、そこに「間(ま)」が生まれると考える。 このような言語的な構造は、たとえば「自販機」をただの機械として見るのではなく、それを取り巻く風景や空気、そこに込められた感情など、複雑な意味を重ねることを可能にする。このような情動を西田哲学では「主客未分(2)」と言うが、自分と周囲の環境や対象が一体となり、自己と外界が分かれていない感覚を共有できる文化が日本にはあると考える。
このように、“自販機のある風景”から見えてくる景色や解釈は様々で、それは観賞者の経験や体験と結びつくことにより、さらに新しい価値を生成できるのではないかと考えている。その意味でも“自販機のある風景”は、写真作品であるうちは、常に未分な黙示でありたいと考えている。
(1) 『メトロポリス』(Metropolis)は、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画で、当時の資本主義と共産主義の対立を描いた作品でもある。 (2) 『善の研究』西田幾多郎著、岩波文庫、1991年、P.264