Roadside Lights ⅵ

雪がしんしんと降り積もる中での撮影は、遙か昔の記憶を呼び覚ます。それは雪遊びをしていて長靴の中が雪でいっぱいになり、靴を脱ぐのに苦労したことや、除雪でできた大きな雪山に穴を掘って秘密基地のようにして遊んだことなどである。そんな楽しい思い出にもまして、私の生まれ育った最北の自然の貌は厳しいものであった。前に進めないほどの激しい吹雪は、まるで自然の力が目の前に立ちはだかるようで、人間の存在がいかに小さなものかを思い知らされた。そのような中、外灯により浮かび上がった吹雪の世 界は、外灯の光により雪が...

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Your eyes are our eyes

北海道では、ササ藪の中を進むことを「漕ぐ」と表現する。この言い回しは、実際にその密生した藪を体験しなければ、本当の意味では理解しがたい。とりわけ「ネマガリダケ」(チシマザサ)は根元から弓のようにしなり、歩く者の足元に絡みつき、進路を阻む。前進は極めて困難となり、「漕ぐ」という独特の表現が生まれたのも頷ける。 明治期の北海道開拓において、囚人労働はこの「笹との闘い」を象徴するものだった。彼らは、繰り返される労働の中で、進むはずの道が果てしない絶望へと変わる現実に直面していた。生い茂る笹は、囚人た...

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Roadside Lights I

作曲家の武満徹がジョン・ケージの音楽を指してこのような言葉を残している“黙示は未分である、それだからそれは生き物だ。それは、さまざまの貌をしている。そして、読み取る人によってさまざまに現る”。この言葉を私の写真作品に置き換えてみると、具象としての“自販機のある風景”からさまざまな観覧者の解釈を経て、抽象へと向かい、未分としての写真の因習から自由な世界を獲得することを期待するものである。 “自販機のある風景”との出会いは私が日本最北の街、稚内で暮らしていたことから始まる。最北の冬は過酷で雪が下から降っ...

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Being There

自販機は日本じゅう至る所にある。 都市はもちろん、誰が買うのと思えるような山間部や最果ての岬にも自販機はある。なにより特別特定の場所というのではなく、なんでもない道端から個人の家の軒先にまで自販機は置かれている。もはや自販機は日本という国を象徴する最もありふれた風景のひとつといっても過言ではないだろう。しかし、それが日本独特のものであることに気づいている人は意外と少ないのではないだろうか。 とはいえ、2011年の東日本大震災の時、原発事故が起こり、節電が叫ばれ、無駄なものとして一番先に挙げられたの...

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Railroad crossing

ある時、私は、閉ざした踏切の前に立ち、ふと考えた。 踏切は、どこにでもあるありふれた風景だ。そして、誰もが一度は立ち止まったことのある場所なのだ。 遮断機が降り、警告音が鳴る。 信号さえない最北のまちで、そこで唯一、私が、立ち止まったのも、踏切であった。 幼い日の思い出と、どこかのんびりした踏切の音。そのイメージは、今も記憶の中に強く残っている。 鉄道は旅を思いおこさせ、人生をも連想させる。 私たちは、長い人生の中で、幾度となく立ち止まっては、過ぎた日々を振り返えり、立ち止まっては、未来に思いを巡...

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Identity as Uygur

Where is the identity as Uygur heading to? This question always comes up to my mind when I visit Xinjiang Uygur Autonomous Region where everything is rapidly changing since my first visit. In elementary schools, Uygur children are now studying in Chinese, not in their own language anymore. They all sing Chinese songs and use Chinese textbooks. This area was once known as a frontier but now there are many streets lined with buildings. Old town becomes a tourist spot. To think about this situat...

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